Diary 2010. 4
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4月16日 (金)  帰郷

馬主の日記より転載・・・ヒヒン裕馬
 両親を久しぶりに沖永良部島に帰島させた。お供は私と妻、弟の3人である。鹿児島空港を15時に離陸し16時30分に沖えらぶ空港に着陸した。レンタカーを借り、余田集落に向かった。3年前に、母と妻と私の3人で帰郷したのだが、そのころとほとんど変わらない懐かしいえらぶの風景が車窓に広がった。
 余田では知名町役場の耕地化の職員が待っていた。畑の境界を画定するためだ。島では、高齢化と不在地主の増大のために、境界の不明な土地が多数あるのだそうだ。八反ほどの畑の境界を父が説明し、くいを打ち、私が書類にサインをして、宿泊先の知名フローラルホテルに向かった。ゆりが満開であった。
 ホテルに父の教え子と名乗る人が面会に来た。父の畑がバナナの栽培に適していて、背の低い台風に強い品種を成功させ、次の島の基幹作物に育てたいのだそうだ。明日もう少し詳しく話しを聞くことにして引き取ってもらった。
 両親に夕食をとってもらった後、妻と弟の3人で、旬香(しゅんこう)という居酒屋に行った。郷土料理と黒糖酒(天下一)を堪能した。

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4月17日 (土)  沖永良部農業の未来

 農業法人沖永良部ファームの沖社長と会った。父の所有する畑の賃貸契約をするためである。沖社長は、父が教鞭をとっていた鹿屋農業高校で学び、帰島後は農業のリーダーとして活躍している。沖社長は、ゆり球根の世界的産地として知られたこの島を、切り花主体の花の島に変え、ジャガイモをサトウキビに変わる期間作物に替えた立役者である。その裏話を聞いた。それは島を愛し、農業を愛し、人を愛するリーダーの物語であると同時に、既存の利権集団、農協、青果市場、マーケットとのすさまじい戦いを演じた闘士の物語でもあった。
 かつて私の父が、農協を通じてジャガイモを出荷したら、東京市場で値崩れしたので、赤字が出たからと、父の農協の口座から差し引かれることが何回もあり、出荷業者を変えたことがあった。島の大手の農家は農協を相手にしていない。小規模農家は、借金でがんじがらめになり、農協に搾取されるがままになっている。沖社長の話は口調こそ温和だが、内容は戦闘的であった。農協経済連から、陰に陽に圧力を受けたがすべて反撃し、今では手を出そうともしなくなったそうだ。
 沖社長は次の沖永良部の期間作物をバナナにすると張り切っている。バイオテクノロジーを使い、いっせいに苗を植え、いっせいに刈り取る、まるで水田での米つくりのようなバナナ栽培を考えている。父の8反ほどの畑がその実験農園として最適なのだそうだ。
 エラブ農民よ永遠なれ!!
馬主の日記より・・・ヒヒン裕馬


4月17日 (土)  埴生の宿

 今日も馬主の日記から転載・・・ヒヒン裕馬
ホテルで朝食を取り、墓参りをした。沖えらぶの墓は4坪ほどの敷地に、海砂が厚く敷き詰められ、そのまわりを、石垣で囲ってある。土葬をした後、7年後に掘り出し、海で洗い、再び瓶の中に入れるという改葬の習慣があったが、火葬場が出来てからはすべて火葬となった。
 安田家の家紋は、いかり十字である。薩摩の奄美支配の時代に、系図、家紋の類はことごとく破棄させられたので、古い墓石から書き起こして今に伝えられている。宮崎県串間市の河野家の家紋と酷似している。おそらく先祖は瀬戸内の水軍だか海賊だか貿易商人だかわからないがつながっているのだろう。
 弁当を買い我が家でたべた。植木が屋根を覆い、低木が庭を原野に変え、父の自慢だった軍鶏小屋も蔓科の植物で覆われ、近づくことも出来ない。前もってシルバー人材センターに頼んでおいたので、家の中はきれいに掃除がしてあった。母は不自由な体を忘れて、押入れや引き出しの整理を始めた。だいじな物が残っていないか気になるのであろう。母につき合わされ5人で家の中の大整理が始まった。もう2度と安田家の誰かがこの家に住むことはないだろう。
 

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